解決への道

解決への道


◆充実感の問題

 自滅のシナリオが読めるようになれば、不安と不満が問題であることが容易にお分かりいただけるでしょう。では、次にどのようにして、解決していくのかを考えたいと思います。

  性格は、生きている充実感があるときは長所が出て、充実感がないときは短所、つまり自滅のシナリオが動きだし人間関係が悪化します。人生が破壊されます。

  自分の性格のなかにどのような自滅のシナリオが含まれていて、どのように動くのかを見極めて、自分の性格から自由になっていくことが、この分析の目的です。

  Eは(自己防衛)です。充実感があるときは、自己反省や自己改革ができ、内面の世界が広がります。さらに人の不安を思いやることができる素晴らしい能力です。しかし、充実感を失えば不安になります。自己反省は自分の悪いところを見いだすことですから、充実感がないときに自己反省すると、悪いところばかりに目がいき自信がなくなって不安になります。心細くなり自分を守ることで精一杯になります。

 「不安さん」です。不安になれば、人の評価が欲しくなります。人の評価を求めて、「いい子ちゃん」になってしまいます。しかし、充実感のないときに「いい子ちゃん」になっても、人の目を気にするだけでオロオロして、良い仕事や評価を上げることはとうていできません。ますます、不安になるという悪循環に飲み込まれます。。

  D(欲求充足本能)も同様です。充実感があるときは、前にどんどん進んでいくエネルギーです。良い面がでます。しかし、充実感がなくなると、どんなにいろいろなものがあっても満ち足りません。不満一杯になります。不満」さんです。

  A(きびしい親)では、充実感があるときは、「一人一人が自由で平等であるためのルールやなるほどと思えるきびしさ」がでます。充実感がなくなると、「どうもあげ足を取っているだけのようなきびしさ、自分のうっぷんを晴らしているだけのようなきびしさ」になって来がちです。

  B(優しい親)についても、充実感があるときは、「本当に相手のことを考えてしている優しさ」でしょうし、なくなれば「自分の損得でしている優しさ、押しつけ、おせっかいのような優しさむになってきます。

  C(合理性)も、充実感があるときは、自分に対しても人に対しても、合理的で理論的に考えられ、対応や対策も的確になります。また原点に返ることができます。しかし、充実感を失えば感情的になります。不安や不満に振り回された物になります。自己弁護や自己正当化になります。


◆私は素晴らしい能力をもっている

 しかし、E(不安)が悪いのではありません。E(不安)は立派な能力です。充実感が高まれば素晴らしい能力です。ただ、充実感が低下すれば悪い面が出ると言うことだけです。ここは、性格分析の最重要ですのでよく理解をしてください。問題は、充実感が低下したことであって、E(不安)駄目なのではないのです。

  特にこれからは「こころの時代」です。「こころの時代」とは、安心や喜びが価値になる時代です。そのときに人の不安を理解できることは、素晴らしい能力なのです。不安が理解できるからこそ、どうしたらその人に安心してもらえるかを考えることができます。解決は、充実感を高めることであって、決してE(不安)を切り捨てようとしないでください。さらに、E(不安)を感じているのは本音の自分です。

  A(きびしい親)、B(やさしい親)は社会的なものですし、C(合理性)は論理的なものですから、そこに本音の私はいません。不安を感じている私こそ、本当の私への入り口です。ここを切り捨てると、私も切り捨てることになり、自分を喪失してしまいます。


◆理想のタイプなどはない

  性格の話をすると、すぐに「理想的なタイプはどれですか?」という質問がとんできます。
  多くの方はきっと、大体全部の要素がなだらかな「普通さん」がいいのではないかと思われるでしょう。しかし、「理想的なタイプなどはない、理想のタイプを求めてはならない」、これがまず最初の大事なことです。

  どのタイプも長所を持っておりますし、同時にそれは短所です。逆に短所は長所ですから、理想的なタイプなどはありません。
  理想的なタイプを求めるというのは、「誰かにとって都合のいい人間になりましょう、なりなさい」ということではないでしようか。

  親にとって都合のいい子供になりましょう。あるいは、先生にとって都合のいい生徒だとか、医者にとって都合の良い患者さんになつて下さいということではないでしょうか。
  それは、「他人の山」に登ることです。それは社会適応することがよいことだという考えでもありますね。しかし、私たちは、社会適応することも大事ですが、本当の自分を生きることはもっと大事なことです。性格分析の目的は、「自分の山」を登ることであるべきです。

  「自分の山」を登るという点からすれば、どの性格も同じです。自分の問題点を発見して、解決していけばよいことです。性格を変えようとすることは、人の性格をまねようとすることですから、解決への満ちは遠のいてしまいます。


◆自己否定はやめてください

  理想のタイプを求めるときに、不安や不満を切り捨て「強くなろう、何事にも動じない人間になろう」と考える人が特に多いです。しかし、先ほどもいいましたが、これは最悪の間違いです。

  不安を感じる感性は、充実感が高いときには、内面の世界、自己反省、自己改革という能力です。さらに人の不安を思いやることができる能力です。本来素晴らしい能力なのです。ただ、自己反省の能力は充実感が低下すれば自分の欠点を暴き立てるので、自信がなくなり「不安さん」になるというだけです。

  不満を感じる感性も、充実感が高いときには、フロンティア精神、好奇心に満ち前に前進しようとするエネルギーです。素晴らしい能力です。ただ、充実感がなくなり思うようにならないと「不満さん」になるだけです。

  このような素晴らしい能力を切り捨て、「強い人間になろう」とすることは、せっかく開発された能力を捨てることです。何よりも、自分を否定することです。自分を否定すればするほどエネルギーを失うことになります。それは、まさに「他人の山」を登ることにほかならないからです。


◆滝に打たれて何になる

 日本人は精神修養が好きです。滝に打たれたり、山の中を走り続けたり。しかし、それはどのような意味があるのでしょうか。強くなろうとすることは「軟弱(E)であってはならない、わがまま(D)であってはならない」ということですが、(E)も(D)も本音の私がいるところです。それを否定しては自分を喪失します。

  肥満の方が、「先生、私は、意志が弱いので、食べてはいけないと思っているのですが、ついつい負けてしまいます。精神力を鍛えなければと思います」と言われます。でも、もう何度その言葉を言っておられるのでしょうか。

  会社に勤めたが、「会社の人間関係で、辛い思いをしています。こんなことで負けていてはいけないと思い、強い人間になりたいと思います」、しかし、そう思って今までやってこられて、かえって自律神経系失調症になって苦しんでおられるのではないですか。

  「景気が悪くて、仕事が厳しくなってきました。何があっても動じない人間にならないと思います。死の特訓にも参加してみようかと思っています」、もしそれで成功するのなら、日本経済はとっくに不況を脱出しているのではないですか。

  精神力を鍛えたい、強くなりたい、動じない人間なりたい、そのようなことを言われる方は実に多いですね。うまく行かない理由が、意志が弱いから、精神力がないから、軟弱だからと思っておられるのですが、本当にそうでしょうか。

  肥満の問題は、あなたの人生に、本当の生きてる喜びや充実感がないからではありませんか。喜びや充実感がなければ、何があってもストレスになります。そのストレスを解消するために食べているのではないですか。強い意志を持って、食欲まで抑えて、ますます生きてる喜びを消したいのでしょうか。

  会社の人間関係がつらいのは、ただ、給料を得るために、あるいはみんなが行くからという漠然とした理由で入社したために、仕事にも情熱を感じられない、これから自分がどう生きて行ったらよいのかも分からないのではないでしょうか。そのような気持ちでは、人間関係が悪くなるのは当然です。強い人間になるということは、強くなってみんなを負かしたいのでしょうか。

  景気が悪いのは、「物の時代」が終わろうとしているのに、「こころの時代」は影も形も見えない、「こころの時代」の商品を作れないことからくるのではないでしょうか。「物」はもう溢れています。「物」を作るのは人件費の安い東南アジアです。国内で求められている商品は、高付加価値のもの、つまり「安心と喜び」です。動じない人間とは、柔軟な心を失った人間でしょう。そんな人間になって「こころの時代」の商品が作れるのでしょうか。

  寒い冬の日に滝に打たれたり、山の中を1000日間も駆け回ったり、それをすると聖者だと称えられます。しかし、打たれるだけならプロレス選手だって激しく打たれています。走るだけならオリンピックで有名になった有森さんの方がよく走るでしょう。

  何かをしたから、聖者ではないのです。それによって何を得たかという内容が大事です。さもないととんでもない誤解が起こります。

  断食をし続けてそのまま死んでミイラになった僧が何人もいます。お寺では、大切に保存し、多くの人の尊敬と信仰の対象となっています。そんな馬鹿なことがありますか。生かされてる生命の世界では、生きてることが素晴らしいのです。自ら命を絶って、しかも聖者だというのは、生かされてる世界に対する全くの裏切り行為です。思い上がりも良いところです。しかし、それを崇めるという風習があることも事実です。これは、一体何なのでしょう。

  精神修養というのは、自分を抑えて強くなることと思われていますが、それはやはり社会適応を第一とする貧しい時代の遺物、「物の時代」の考えでしょう。貧しい時代で生きていくためには、自分のわがままや軟弱さを捨てて、社会に適合しなければなりません。

 しかし、豊かな時代になって、自分を捨てることは、自分を見失うことです。求められているのは、個性であり独創性です。自分を殺してしまっては、独創的なものはでてきません。

  豊かな時代は、「自分の山」を登ることができる素晴らしい時代です。自分の中にある生きてる感動や喜びや充実感を高める生き方です。そして、それが社会や国が求めている高付加価値の人間の誕生です。勿論、そのためには、方法も訓練も、確かに意志も必要です。しかし、それは自分を殺すためではなく、自分を最高に生かすためなのです。そのためには(E)と(D)は本来素晴らしい能力なのだということ、そこに本音の私がいるということを知ってください。滝に打たれて、枯れ木や石にならないでください。


◆自分も人も現実も変えようとしてはならない

  だから、「決して自分を変えようとしてはならない」、これが私の皆さんに対する最も重要なアドバイスです。

 D(自由気ままな子供)の部分が低いから、D(自由気ままな子供)を上げたらいいだろう、言いたいことを言って、やりたいことをすればいいのではないか。しかし実際に、そういうことをしたら、E(人の評価を気にする子供)が不安を感じて、気持ちがバラバラになって夜も寝られなくなります。ますます充実感を失います。自分を変えようとするのは自己否定ですから、ますます自分が何であって、何をしたいのか分からなくなります。

  人を変えたいというのは、たいていの場合、自分にとって都合の良い人になってくださいということなので、うまく行くはずがありません。現実はどんなに悪くても、それなりのバランスの上に成り立っていますので、それを壊せば、現実対応だけで、大変なエネルギーを消耗しなければなりません。しかも、それらは結果として悪くなったので、本当の原因はそこにはないからです。

  変えようとしても、変えられるものではありません。「変えようとしてはならない」、これは実に大切なことなのです。特に、性格分析を学び初めて3年ぐらいは初級コースのようなものですので、変えようとしないでください。


◆私は正常です

  では、どうするのか。それは、「良く理解し、理解するにとどめる」ということです。自分はどういうタイプなのか、それから充実感を失ったら、どういう形で自滅のシナリオが動き出すのかを習熟することです。

  E(人の評価を気にする子供)の高い人であれば、充実感を失えば、「不安さん」になる。「不安さん」で、攻撃、警戒のメッセイジーを受けていれば、「バラバラさん」になります。「一生懸命に働くこと。親切にすること」というメッセイジーを受けていれば、「ボロぞうきんさん」になります。自己合理化や自己説得のメッセイジーであれば、「クールさん」になります。不安と親からのメッセージと結合して自滅のシナリオとなる。これを見抜いていくということです。

  D(自由気ままな子供)の高い人であれば、充実感を失えば、「不満さん」になる。「不満」さんで、攻撃のメッセイジーであれば、「あんたが悪いさん」になり、「働くこと、親切にすること」であれば、「行け行けさん」になり、自己合理化や自己説得であれば、「クールさん」です。
  子供のままで、大人になれない人の場合は、「不安さん」であり、「不満」さんです。不安と不満の両方がある場合は、「子供ちゃん」です。

  さらに、現在の状態が悲惨なものでも、みじめなものであっても、自滅のシナリオから見れば正常なことが起こっているのです。小さいときからの家庭環境があって、このような自滅のシナリオを持った人なら、現在このように行き詰まるのは心の面から見たら当然です。こころは正常に動いているのです。もし、自滅のシナリオに飲み込まれているのに、ケラケラと明るく笑っていられるのなら、それこそ異常でしょう。

 人生はうまく行かなくなったが、私のこころは正常に動いている。私は正常だ。この理解は大変大事なことです。なによりも正しい理解です。もし、私は異常だと思いこめば、自己否定になります。自己否定をすれば悪循環に引き込まれます。


◆行き詰まったのは私の性格

  社会生活が行き詰まると、(E)の高い人は自分は駄目だと自分を攻めます。しかし、この章の最初でもお話ししましたように、性格は作られるものです。性格は私が着ている衣装です。しかも、そのほとんどは家庭や社会の環境によるものです。そうして、その性格の自滅のシナリオが働きだして、行き詰まったのです。性格が私自身ではない以上、私が行き詰まったのではなくて、私の性格が破綻を来したのです。

  ここのところを間違えないでください。自分が行き詰まったのであれば絶望です。しかし、性格が行き詰まっただけなのなら問題は全く違ってきます。これは性格から自由になって本当の自分を生きる、「自分の山」を登る生き方へのチャンスかもしれません。もし、人生が順調であれば、性格から自由になって本当の自分を生きようというようなことも考え浮かばなかったでしょう。そのまま人生を送り、白い死のベッド上で、「果たしてこれでは自分を生きたのだろうか、他人の山を登っただけではないのか?」というような悔いに悩まされたかもしれません。

  人は苦しいときにしか進歩しません。「本当の自分」を生きようというようなことは問題がないときには考えたとしても本気になれないものです。私が行き詰まったのではないということをしっかりと理解して欲しいと思います。


◆不安は過去のもの

 不安から自由になるためにもう少し考えてみましょう。今不安にとらえられている方に向かって、「何が不安ですか?」と聞いてみると、はっきりとした返答
がないことがほとんどです。

  現在の日本はどんなに不況であってもまだまだ豊かな国です。餓死することはありません。安全な国ということでも世界で有数です。誰かが殺しにやってくるわけでもありません。では、何が不安なのでしょうか。大人になったあなたにとって、日々食べていくことも、自分のみを守ることも、この国ではそんなに難しくないのに何が不安なのでしょうか。

  不安は、現在のものではなくて、過去の経験です。極端にD(自由気ままな子供)が高くてE(人の評価を気にする子供)の低い方では、不安というものが分かりません。不安の経験がないからです。不安の経験がなければ、知らない人が近づいてこようが、会社が倒産しかけていようが、不安は感じますが不安は感じません。

 将来の不安と言う方もいますが、将来は見たこともありません。明日は誰も見たことがないのです。ですから、将来の不安は過去の不安からの想像です。

  幼いときは自分で生きていけません。体も小さいですから、少しのことでも危機です。そのときの恐怖は鮮烈で強いものですが、時と共に鮮烈さは薄らいでいきます。具体的な事柄は忘れられていきます。

  しかし、受けた感情は残ります。はっきりとした出来事が分からなくなっているだけに、漠然とした不安となって生き続けます。充実感がある時は、人生を前向きに生きていますから過去はでてきません。しかし、充実感を失ったときは、子供の状態に戻りますので、不安も戻ります。その不安によって、周りのもの、将来のことを想像しているのが、不安にとらえられたあなたです。

  もう少し具体的に考えてみると、不安の原因となっているものは、世間体と死であることが多いように思います。確かに世間体が悪くなれば社会から放り出され食べていけなくなります。それは不安です。しかし、食べていけなくなるのは貧しい時代でした。豊かな現在は、先ほども言ったように餓死することはありません。

  死は将来のことであり経験したことがないので本当のところは分かりません。いずれにせよ、過去の不安が増幅させ、その陰におびえているのです。勿論、世間体と死についての本当の解決が必要です。それがなくては何の意味もなくなりますが、極めて難しい問題です。ただ、安心してください。それこそが「生かされてる医学」の目的です。是非、深く「生かされてる医学」を学んでください。


◆過去にはすべて意味があった

 自滅のシナリオは小さいときに形成されます。過去の家庭環境が最も影響しています。特に両親の影響でしょう。では、こんな性格にした親の罪でしょうか。しかし、親の性格もそのまた親から影響されたものです。その親もそらにその親からの影響です。ですから、親のせいにすべてするのは気の毒なようにも思います。

  しかし、その親の影響があって自滅のシナリオが形成され、現在の行き詰まりがなかったなら、今も、これからも社会適応だけの生き方をしていて、「自分の山」を登る生き方へと出発できなかったでしょう。

 今のあなたはまだ「自分の山」を登っていないので、苦しいだけでしょう。苦しんでいる方に向かって、「幸いでしたね」といっても腹立たしく思われるだけかもしれませんが、人生の歓びは何と言っても「本当の自分」を生きることができることではありませんか。もし、そうだとすればその出発点に立つことができたのは、その過去があったからです。

  過去があって現在があるのですから、その過去はすべて必要だったのです。こうして過去を認めることができれば、過去と和解することができれば、あなたは過去から解放されます。


◆充実感と原点が解決の鍵

  以上が、性格分析のお話しでした。どうでしょうか。ここまでの話で、自分の性格から自由になれてそうですか? 「自分も周りも爽やかさん」になって、自由自在に生きられそうですか? 突然死・過労死の脅威からさようならができそうでしょうか? 

  頭では分かったが、とても実行はできない。そのような方はおられませんでしょうか? もしそうなら、食欲やお酒やタバコと戦ったのと同じように、「苦しみの医学」になりかねませんね。ストレスがあれば、心身相関とライフ・スタイルが乱れる。がん・脳卒中・心筋梗塞が予防できなくなる。第4章はそういうお話しでした。以上から、ストレスが最大の問題であるということは理解していただけたと思います。

  「ストレスの解決法とは何か」ということになるのですが、ここでもよく誤解があります。「ストレスに強くなろう、多少のことではびくともしない精神力をつけよう」、しかし、これは過食・お酒・タバコと戦って「苦しみの医学」をしていたのとあまりかわりがありません。

  不安や不満と戦って勝てるわけがありません。ますますストレスになり、やがて疲れてしまうでしょう。強くなることはできないので、これは解決法にはなりません。

  一方、リラックスしたり旅行やサウナで解消するのはどうでしょう。それも悪くはありませんが、人生の大部分を占める実生活はストレス一杯で、ごくたまにする生き抜きでは、十分な効果が期待できません。結局、また過食・お酒・タバコにストレスの解消を求めることになりませんでしょうか。これも解決法としては本物とは言えないでしょう。

  では、本物の解決法はどんなものでしょう。もう一度考えてください。ストレスは同じ人に同 ことが起きても、いつも同じではありません。生きている充実感が高まっているときには、多少のことではストレスにはなりません。逆に、充実感が無くなっているときには、少し嫌なことが起こっても、強いストレスになります。

  ストレスを感じるか否かは、そして自滅のシナリオが動き出すかどうかは、生きている充実感のあるなしの問題ということになります。ストレスを解決するとは、生きている充実感を高めることではないでしょうか。つまり、「ストレス病」とは、「
充実感欠乏症」ということです。

 そうです。自滅のシナリオになるかは、生きている充実感のあるなしによると申し上げました。性格分析を使いこなし、自分の性格から自由になるためには、生きている充実感が必要です。充実感を高める方法がなければ、性格分析も絵にかいた餅になりかねません。

  それともう一つ、原点です。充実感があるときのC(合理性)は、原点に戻る機能でした。では、{あなたの人生の原点は何ですか?」、さらに「あなたは自分の価値を何によって決めていますか? 自分の価値を決める原点は何ですか?」。

  充実感が高まってEもDもE面が出てきても、人生の原点が不明瞭ではうまく生きることができません。また、ストレスの中で充実感を喪失するでしょう。
充実感を高めることと、原点を明確にすること、この二つが解決への鍵だということがお分かりいただけるのではないでしょうか。


◆「第3の生き方」でないと解決できない

 整理のために、生き方を大きく3つに分けました。
 「第1の生き方」は、社会適応を優先して自分を犠牲にする「社会適応優先型」です。これは日本の比較的貧しかった時代を経験した人です。行け行けどんどんで生きてきた「行け行けさん」、周囲に気ばかり使って生きてきた「ボロぞうきんさん」、自分を抑えることだけだった「伝統さん」です。いずれも「社会適応優先型」の典型で、戦後50年、本当に良く頑張って来られました。そのお陰で今の日本の繁栄があります。

  貧しい時代では、「社会適応優先型」は決して不幸ではありません。貧しい時代は、「ご飯が食べられたら、幸せです」。ご飯が食べられるということで、生きている充実感も喜びも感じられました。

  子供にとっても、ひもじいので、ご飯のために働いてくれるお父さん、お母さんは、素晴らしい存在です。子供からも拍手がきます。会社にとっても、国にとっても、大切な人で尊敬もされます。

  しかし、豊かな時代になれば、ご飯が食べられることは当たり前です。もう、食べられるだけでは、感動も充実感も感じることはできません。子供達も、物があふれている中で育っています。ご飯のために働く親は、「ただ好きでしているだけの人です」。ふと「自分は何をしてきたのだろうという」思いがして空しさを感じるときがあります。

  さらに、日本の経済がまだ上昇しているときは、この苦労にも意味がありました。まだ上昇できるのであれば、問題は先送りができたでしょう。しかし、もはや経済は上昇できず、すでに行き詰まってしまいました。このまま沈没する可能性が高くなってきました。

  「今までので努力は何だったのか」と思うと、ほんとうに空しさにとらわれます。ストレスをさらに感じやすくなります。さらに疲労が溜まり、生きている充実感が失われます。
「第2の生き方」は、「自己中心型」と呼んでいます。日本が豊かな国になってから現れました若い世代の方々です。

  では「自己中心型」は自由で楽しいのかというと、とんでもありません。A(きびしい親)とB(やさしい親)が成長できない「不安さん」、「不満さん」、「子供ちゃん」ですからうまく生きられません。皆が自由に生きようとすると、ぶつかります。単なるわがままになります。思うようにならないので、不満一杯になるでしょう。また、物のあふれる時代に育つと、社会適応のための勉強や忍耐を身につけていません。

  親元にいるときは生きていけますが、いつまでも親の元にはおれません。就職して社会の中へだたり、嫁にいくと、自分を守る方法を知らないので、不安と不満で一杯になります。「自己中心型」は自分中心で社会適応ができない生き方になります。

 そして、最大のストレスは、「第1の生き方」の人と「第2の生き方」の人が家庭や会社でともに暮らしているということです。価値観もフィーリングも全く異なります。話してもわかりません。ここからくるストレスが私たちを最も疲れさせるものかもしれません。

  以上のように、「第1の生き方」も「第2の生き方」も、どちらも充実感を失ってストレスを受けやすくなる生き方であり、そのストレスが心身相関と生活習慣を乱します。
  その結果が、肥満であり自律神経系失調症であり、成人病であり、最終的にはがん・心筋梗塞・脳卒中に至る。つまり、肥満や成人病の本当の原因は、「第1の生き方」や「第2の生き方」からくる生きている充実感の喪失です。

  だから、自滅のシナリオの解決、さらに肥満の解消、がん・心筋梗塞・脳卒中の予防にも、生き方の問題として理解する必要がどうしてもでてくるのです。
解決のためには、新しい「第3の生き方」が必要です。新しい「こころの時代」には、新しい生き方が必要です。自分も周りも幸せになれる第3の生き方が必要なのです。

  これは「こころの時代」の生き方であり、まだ実現できていません。しかし、「第3の生き方」を実現しない限り、こころの問題も、その結果としての肥満や成人病も解決できません。「物の時代」の価値観やシステムでは「こころの時代」を築けません。

  現実の社会では、まだ「物の時代」の人々が中心です。今もなお、「物の時代」を支えた「旧い人間」がリーダーシップを握り、「物の時代」のやり方で日本丸の舵取りをしようとしています。そして、ますます混迷の海に日本丸を沈めていこうとしています。

  心優しく不安に駆られ、時として自信を失い自己嫌悪に陥っているあなた。「自分なんか駄目だ」と思っておられるかもしれません。しかし、そのあなたこそ次の時代「こころの時代」の担い手、「新しい人間」なのです。

 あなたが自分を発見されたとき、自分自身の人生を手に入れるばかりか、一人一人が「自分を生きて、自分も周りも幸せになれる新しい文明が始まるのです。どうか、自分の素晴らしい価値を認めてください。

  では、その方法とはどのようなものでしょうか? 本当にあるのでしょうか? しかし、大丈夫です。安心してください。それが、生かされてる医学です。