自分分析 (本当の自分を知ろう)

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  •  自分発見の方法では、本当の自分を知るために、自分分析という方法を使っていきます。
    自分と言っても、自分の中にはも、いろいろな自分がいます。それを以下の表にあるように、9つの自分を見ていきます。

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  •  新型ストレスは、自分分析を学べば大変わかりやすくなります。新型ストレスの理解のためにも、自分分析を学んでください。
  • ◆KとOの葛藤による新型ストレス

     人に自分の存在価値を認めさせようとする自分、ブライドの自分(K)と、ご飯のために社会適応する自分(O)が同居している場合です。社会適応は自分を押さえることです。ご飯は得られますが、自分を生きれません。自分は窒息します。時として深く傷つきます。

     しかし、Kを押し通せば、それは社会から見れば我がままでしかありません。自滅します。両方得ることはできません。どちらかを捨てることもできません。この葛藤が延々と続きます。

  • ◆KとNの新型ストレス

     自分の中に、N(愛や評価を貰うために良い子になる自分)と、K(人に自分の存在価値を認めさせようとする自分、ブライドの自分)があれば、新型ストレスになります。Nを得るためには、良い子にならなくてはなりません。Kは捨てなければなりません。それはできません。嫌です。

     一方、Kを貫くと嫌われます。Kは、人よりも上になろうとする自分です。Nは貰えません。それも困ります。どうして良いのか分からなくなります。この葛藤が果てしなく続き、生きるエネルギーを喪失していきます。

  • ◆WとOの葛藤による新型ストレス

     Wは、自由気ままに生きたい自分です。それは、とっても楽しいでしょうが、ご飯は得られません。人から見れば。我がままですから、最終的には、孤立と孤独に落ちます。Oは、ご飯のために自分を押えて社会適応する自分です。社会適応する自分ですから、ご飯は得られます。

     この二つがあれば、葛藤します。社会適応するということは、自分を押さえなければなりません。そうすれば、ご飯は得られます。しかし、自由に生きたい自分は窒息します。嫌です。不満です。生きる意味を喪失します。そんな生き方は、できません。

     しかし、Wで生きれば、ご飯が食べられなくなるので、餓死します。孤立と孤独と餓死になります。それも困ります。そんな怖くて気ままな生き方は絶対にできません。両方得ることも、どちらかを捨てることもできません。自分の中に、この二つの自分がいれば、葛藤し続けます。葛藤でパニックになり疲れ果てます。この葛藤が延々と続き、やがては無気力、無感動化します。

  • ◆WとNが葛藤する新型ストレス

     自分の中に、自由気ままに生きたい自分(W)と、愛や評価を貰うために良い子になる自分(N)がいれば、たいへん苦しくなります。Wは、楽しく生き生きとした感じがして自分が生きていると感じるかもしれませんが、世間から見れば、悪い子です。愛も評価も貰えません。それでは、孤立と孤独になります。とっても寂しくて生きて居れません。

     しかし、Nを優先すれば、愛と評価は貰えますが、Wは窒息します。それは嫌です。耐えられません。両方得ることはできません。どちらかを捨てることもできません。この葛藤が延々と続きます。


  • ◆自分分析の実際「GさんのKとKの不安による新型ストレスの苦闘」

     Gさんは、39歳の男性です。会社員ですが、仕事がうまくいきません。さすがにこのままでは駄目だと自分でも感じ始めました。本人としてはきちんとやっているつもりですが、ミスが起こります。

     Gさんは、自分を生きたい第1の自分が、K(人に自分の存在価値を認めさせようとする自分、プライドの自分)で、社会適応しようとする第2の自分もKの不安であるようです。 Kは、成功し続けなければなりませんが、永遠に成功し続けることなど到底できません。また、常に人の上にたとうとするので、嫌われます。ということで、Kは、必ずKの不安を伴います。

     不安を感じたGさんは、流石に、なんとか社会適応しようとしますが、Kの不安でするためにトンチンカンです。 社会適応をする場合、N(愛や評価を貰うために良い子になる自分)やO(ご飯のために社会適応する自分)であれば、会社や相手の人の望んでいることを考え、それに合わそうとします。

     しかし、Kは自分が判断基準です。自分勝手な社会適応になります。言うべきでないところで自己主張をし過ぎたり、やらなければならないことを放置したりします。しかも、自分は、ものすごく自分を押さえて社会適応しているという意識ですから、うまくいくはずはありません。自滅のシナリオになっていきます。解決のためには、まず、この心の動きを理解するところから始めましょう。


  • ◆K(人に自分の存在価値を認めさせようとする自分、プライドの自分)の悲劇の解決方法

     Kは、自分の存在価値を人に認めさそうとする自分ですから、人の上にならなければなりません。 人と同じでは、人の中に埋没してしまいますので駄目です。 人以下では、完全に駄目です。 しかし、常に、人の上になることは不可能です。 人の上になろうとすることは、成功しているときでも嫌われることです。 成功しているので、仕方なく周りは我慢しているだけです。

     しかし、常に前進拡大し、成功し続けることは不可能です。やがて行き詰まり、失敗することも起こります。 このKの人が、失敗し続けるKになれば、周りが我慢しているはずがありません。 日夜、針の筵の上で生きていくことになりますが、Kを捨てることは出来ません。 犬になることなど、到底出来ません。 その状態においても、なお、解決策は、人の上になることです。 救おうとする人がいても、Kの人にとって、救われるということは、その人の上に立つことです。 結局、救おうとする人は、誰もいなくなってしまいます。

     ただ、Kの人と言っても、いろいろです。 学べる人もあります。 学べる人は、考えて見ましょう。 「では、どうして、Kになったのか?」ということです。 生まれたときから、Kということはありません。 生まれたときは、E(自己防衛本能)とD(欲求本能)だけです。 すべて、親が世話をしてくれて、生きることが出来る状態です。 親がいなければ、死んでしまいます。

     最も大事なものは、親です。 しかも、単に安心とミルクを与えてくれるだけではなく、無条件の優しさで包んでくれます。 親も、普通の人間ですから、いつも無条件の優しさではありません。 しかし、子供が生まれた最初の時期は、無条件の優しさです。 この時の親は、ふとした優しさの自分です。この優しさを越えるようなものは、存在しません。 安全とミルクと無条件の優しさをもらって子供は育ちます。

     しかし、少し大きくなると、親はもう、無条件の優しさはくれなくなります。 親自身も自分を生きたいですし、その次の子供が生まれれば、次の子に手がかかります。 さらに、将来のことを考えると、社会は、競争社会ですから、強い子になるように、後ろ指をさされない子になるように、育てなければなりません。 その親が、Kの強い親だと、「人は敵だ。負けてはならない。勝たなければならない。バカにされてはならない。」と、子供に言うでしょう。 言葉で直接言わなくても、日ごろの親の言動を見ていると、Kでなければならない。 つまり、Kでなければ、親に認めてもらえない。優しさがもらえないと感じ取るでしょう。

     当然ですが、このKの親は、子供を不安にします。 Kは、人を切り捨てていきますから、子供は、自分も切り捨てられるのではないかという不安を感じます。 安全を与えてくれるはずの親が、逆に、不安を与えるのです。 不安を感じた子供は、なおさら、良い子になろうとします。 良い子になることは、親の言うことを聞くことで、親のメッセージは、「人は敵だ。強くなれ、負けるな、バカにされるな。」です。 不安を感じている子に、不安であってはならないというメッセージを与えているのです。 子供は、無理してでも、不安を切り捨てる子にならなければなりません。 これを二重否定と言っています。 これは、むごいことです。

     しかしこうして見てくると、Kの人が欲しかったものは、もうおわかりでしょう。 無条件の愛と承認です。 勿論、Kの人も、大人になっていきます。 自分で、安心とミルクと優しさを得れば良いのですが、小さいときの不安と、特に、無条件の優しさは、骨の髄にまで染み込んでいます。 まして、失敗し続けるKであれば、世間から安心も優しさももらえません。 孤立と孤独と不安のなかにいます。

     体は大人でも、この状態では、心は、子供の心に引き戻されます。 Kは手段であり、本当に欲しいのは、安心と優しさなのに、それを得る方法として、Kしか知らない不幸です。 一刻も早く、このような自分分析と、頭をカラッポにする丹田呼吸法と、生かされてる医学的事実を学び、無条件の愛と存在価値を実感しましょう。


  • ◆PK(パッシブなK、受身のK)、このやっかいなもの

     PKと呼んでいるものがあります。パッシブなK、受け身のKという意味です。 自分の存在価値を、人に認めさそうとする自分や、プライドの高い自分、傲慢な自分を、Kと呼んでいますが、このように、はっきりとしたKの人は、日本人には、それほど多くはないでしょう。

     むしろ、「私は、ただ、私の存在や価値を認めた上で、評価してほしいのです。 良く働く社員の1人だからではなく、夫だから、妻だから、子供だからではなく、私という存在を認めたうえで、評価や優しさがほしいのです。 誰でも良いのではなく、多数の中の1人ではなく、ちゃんと、私という存在を見てほしいのです。 決して、認めさそうなどとは思っていません。まして、認めないのなら、相手を倒してでも、認めさせるなどということは、夢にも思ったことはありません。」 大抵の方のお気持ちは、このようなものでしょうし、これは、ごく当たり前のことです。人間として、当然のことでしょう。

     しかし、私という存在を認めたうえでということは、私は、価値ある存在でなければなりません。 私は、価値ある存在であるということを証明しなければなりません。しかも、一時ではなく、常に、証明し続けなくてはなりません。 これは、やはり、相手に、自分の存在価値を認めさそうということです。 言葉としては、謙虚に言っておられますから、Kとは思えないですし、ご本人も、Kだとは、全く思っておられない方が、殆どでしょう。

     積極的に、認めさそうとしていないだけです。消極的な態度で、お願いをしているようであり、受身的ですが、やはり、Kです。 この受身的なKを、PKと呼んでいるのです。 「認めさせたい」というのはKですが、「認めて欲しい」というのは、Nですから、PKの方は、自分は、Nであると思っている方が多いです。

     Nは、相手にあわせようとします。相手の考えていることを理解し、分からなければ学び、望んでいることをしようとします。簡単に言えば、犬になろうとします。評価や優しさがもらえるのなら、犬になることなど平気です。 もっともNの人は、自分では、犬になっているという感じはありません。人のためにしたり、人に合わせるのが、自然で嬉しいのです。犬と見えるのは、Kの人から見たことです。

     PKは、自分を抑えることはありません。控えめであったとしても、皆とは違う自分を押し出し、自分が価値ある存在であることを認めさせようとします。 PKは、判断の基準は自分です。一見、従順なように見えますが、良く見ると、自分の考えで判断しています。皆と同じでは、埋没しますので、人よりは、少しでも良くできる自分を見せつけようとします。心の底では、犬になど絶対になれません。

     PKは、大変わかりにくく、一見、おとなしく従順で、とても良い子のように見えますし、何よりも、本人が、Kだとは思っていませんので、発見が遅れます。 私が、Kのことを散々書いてり言ったりしていても、PK(パッシブ、受身のK)の人は、他人のことのように読んでおられることでしょう。 Kは、必ず、自滅すると、繰り返し言っていても、自分とは無関係のことと思っておられるでしょう。

     しかし、PKもKです。競争であり、戦いであり、失敗は許されません。 常に、自分の価値を証明し続けることはできませんので、やがては、疲れ果て、自己否定、自己嫌悪に陥り、自滅していきます。 対人関係は、初めは、人当たりが良いので、皆から受け入れられますが、段々、独りよがりな面がでてきます。プライドの高さも、見え隠れします。やがては、一人ぼっちになっていきます。

     PKの悩み、苦しみ、悲しさは、自分が否定されることです。無視され、ないがしろにされ、プライドが、傷つけられることです。 Nのように犬になっていれば、傷つけれられることもなく、人並みの評価や優しさはもらえるのですが、PKの欲しいものは、人並みのものではだめなのです。 こうして、自分の存在価値を主張しなければもらえたはずのものも、得られなく自滅していきます。 PKは、Kなのです。自滅のシナリオなのです。

     しかし、あいまいで、はっきりしないために、発見できないで、時間だけが過ぎていきます。 その点から見れば、はっきりしたKよりも、やっかいなものです。 明確に、当てはめをして、はっきりとさせなければなりません。 なかなか難しそうですが、簡単な質問があります。 Kではないと思っておられる方への質問です。 「あなたは、犬になれますか?」 なれないというのであれば、PKなのです。


  • ◆S(笑顔を見たい自分) が、自滅のシナリオとなるとき

     誠実に勉強や仕事や家事をしている人がいます。それはとても良いことです。ただ、中には、やり過ぎる人もいます。精神的にも、身体的にも疲れ果てます。生命力や充実感も低下し、客観性もなくなってきます。仕事の効率も落ちてきます。ミスも起こります。

     それでもやり続けます。むしろ今までのマイナスを挽回するために、さらに頑張ろうとします。そんな状態で頑張るので、さらに効率が悪化し、ミスが重なります。しかし、止まることができません。そのマイナスを挽回するためにさらに頑張ろうとし、悪循環に落ちていき、最悪の場合は、過労死やうつ病に至ります。

     どうして、このような非合理的なことが起こるのでしょう。どの自分が、このように頑張っているのでしょうか? 自分分析で、探してみましょう。それが、S(笑顔を見たい自分) であるのなら、大変問題です。

     K(自分の存在価値を認めさせようとする自分、ブライドの自分) が、自滅のシナリオであることは、よくわかります。しかし、S(笑顔を見たい自分) は、Kとは全く違って、素晴らしい自分です。なのにどうして自滅のシナリオになるのでしょうか。

     まず、誰の笑顔を見たいのでしょうか? 思い当たる人の顔を一人一人思い浮かべて見ていきましょう。すぐに分かることもありますが、無意識になっていて、なかなか容易には分からないことも多いです。しかし、ここは肝心ですから突き詰めて見て行きましょう。

     何度も突き詰めて見ていくと、大抵は、お父さんであったり、お母さんです。そして、それはとっても良いことです。自滅のシナリオの原因になることなどないはずです。

     しかし、これは時代の問題です。親は、子供の将来を心配しています。「ご飯が食べられるだろうか? 人からバカにされないだろうか? 辛い目に合わないだろうか?」、常に心配しています。そのために、しっかり社会適応できるように育てようとします。「社会適応できることが大事だ。良いことだ。」と言い続けます。

     社会は、悲しいことに、現在もなおかつ競争社会です。その中で、立派に社会適応するということは、常に良い評価を得られる人間にならなければなりません。成功し続けられる人間になければなりません。

     Sは、親の笑顔を見たいだけです。親を安心させてあげたいだけです。でも、そのためには、立派に社会適応するという親の願いを達成しなければなりません。競争社会の中で、常に良い評価を得る、成功し続けること、それは困難です。ここに悲劇があります。

     客観的に見れば、社会が求めていることは、それほど立派である必要はない場合も多いです。普通で良いことのほうが多いはずです。しかし、判断基準が客観的ではありません。親の期待が判断基準です。ですから、止まることができません。

     しかし、親の本心は、子供を心配しているだけなのです。親も子も、互いに優しい気持ちであり、愛し合っています。愛ゆえの悲劇です。

     でも、それが分かれば解決は難しくありません。社会適応ができるできないにかかわらず、自分が幸せであれば良いのです。笑顔で、「産んでくれてありがとう。育ててくれてありがとう。」と言えれば良いのです。子供の笑顔と、その一言が、親にとって最高のプレゼントです。

     大きな生命の世界の中で医学的・科学的に生かされて生きている。大きな生命の世界の素晴らしい法則と美しい調和とかぎりない優しさによって、かけがえのない存在として生かされている。それを理解し実感できれば良いのです。

     頭をカラッポにする丹田呼吸法と生かされてる医学的事実があれば、誰にでも実感できます。
    その時、Sは、ふとした優しさの自分(Y) になっています。


  • ◆ふとした優しさの自分(Y)しか解決できない

     自分も大事な人も幸せに生きるために必要なものは、なんでしょうか。 心の時代に入り、心を扱う能力が必須ですが、未だに、物の時代の能力のままで、心を扱う能力は皆無です。そのことが多くの無用な苦しみや悲劇を起こしています。心と物は全く違った動きをします。心を扱う能力がなければ、同じことの繰り返しで、生命力と充実感を失っていきます。是非、学んで下さい。

     特に、自分分析はとても役に立ちます。心の時代の心身医学「自分発見の方法」では、「自分を目一杯生きて、周りの人も幸せになる生き方をしたいのです。それには、ふとした優しさの自分を生きることです。」と言っているのですが、何のことか分からないという人がほとんどだと思います。

     「ふとした優しさの自分」と言っても、「そんなもの何の役に立つのだろう? 何の意味があるのだろう?」と思う人が殆どでしょう。社会は、競争社会であり、その中で、生存競争をして生きています。「ふとした優しさの自分」など、何の役にも立ちません。何の意味もありません。確かにそうだろうと思います。

     ただどんな時代でも、「自分を目一杯生きて、周りの人も幸せになる生き方」をしたいです。では、NOTWKS(ノットワックス)で、それが可能でしょうか? 表を見ながら考えて下さい。自分を生きたい自分の殆どは、K、W、Tです。

     K(人に自分の存在価値を認めさせようとする自分、ブライドの自分)であり、W(自由気ままに生きたい自分)であり、T(快楽したい自分)です。これらの自分を強引に進めていけば、社会適応はできません。一方、社会適応しようとする自分の殆どは、N、O、Sです。N(愛や評価を貰うために良い子になる自分)であり、O(ご飯のために自分を抑えて社会適応する自分)であり、S(笑顔を見たい自分ー殆どは自分のための親切)です。

     これらの自分を生きようとすると、自分を生きたい自分は抑えられて窒息します。両方満たすことはできません。まして、どちらかを捨てることは到底できません。両者の葛藤が続き、不安と不満が充塞し、最終的には、諦めて程々に生きることになります。新型ストレスです。

     結局、NOTWKS(ノットワックス)では、「自分を目一杯生きて、周りの人も幸せになる生き方」ができません。現代人の大人も子供も、殆どはこの状態にあると思います。可能性のあるのは、「ふとした優しさの自分」です。「ふとした優しさの自分」は、自分自身ですから、目一杯生きても、自分が抑えられることはありません。窒息しません。それどころか生き生きとしてきます。そして、優しくするのが好きですから、社会適応もできます。

     勿論、今まで役に立たないものとして、置き去りにされたり、捨てられたりしてきたものですから、「ふと」でしかありません。しかし、かぎりなく優しい心身医学があります。頭をカラッポにする丹田呼吸法と生かされてる医学的事実があれば、育てることができます。大丈夫です。もし、「ふとした優しさの自分」が少しでもあり、それが好きであり、それを生きていきたいと思えたら、是非、育てましょう。育てて生きましょう。自由自在の人生です。


  • ◆傷ついている人が対象です

     強くなろうとして、不安や不満や傷つく自分を切り捨てている人がいます。殆どは、K(自分の存在価値を認めさせようとする自分、プライドの自分)だと思います。自分はそれで良いのでしょうが、子供や大事な人の心が分からなくなります。心配ですが、心を見る必要を感じられないのでしかたがありません。

     不安や不満を感じ、心がひどく傷ついている人が、かぎりなく優しい心身医学の対象です。今は辛いでしょうが、学んでいきましょう。根本解決ができます。

     不安や恐怖を感じた時、まず自分分析をしてみましょう。不満や怒りを感じた時も、自分分析をしてみましょう。自分がひどく傷ついた時は、なによりも自分分析をしてみましょう。いろいろな自分がいます。どの自分が、不安や不満や傷ついているのでしょうか。下の表を見ながら、調べてみましょう。

     N(良い評価や優しさをもらいたい自分)?、O(ご飯のために社会適応する自分)?、T(快楽したい自分)?、W(自由気ままに生きたい自分)?、K(自分の存在価値を認めさせようとする自分、ブライドの自分)?、S(笑顔を見たい自分ー殆どは自分のため)?

     それぞれ確かに自分です。また不本意であっても社会適応のために必要な自分もあります。確かに、その自分なら気持ちとしては、楽しくありません。少しのことに対しても、不安や恐怖を感じます。不満や怒りも感じます。自分がひどく傷つきます。

     その自分を見つめながら、頭をカラッポにする丹田呼吸法をしてみましょう。大きな生命の世界の中で、生かされてる医学的事実を確認してみましょう。それを繰り返していきましょう。不思議な気持ちがしてきます。不安や不満や傷つく自分が薄れてきます。恐怖や怒りが消えてきます。穏やかで優しい雰囲気がしてきます。何か自信のようなものも感じます。

     大きな生命の世界の中で医学的、科学的に生かされている自分を感じます。ふとした優しさの自分を感じます。大きな生命の世界は穏やかで輝いています。不思議な世界です。ふとした優しさの自分は、NOTWKS(ノットワックス)の自分を超えた不思議な自分です。

     生かされてる医学的事実と、ふとした優しさの自分なら生きていけそうです。「ふとした優しさの自分+生かされてる医学的事実」、この2つがあれば、大丈夫です。これは、いつもしている私自身の自分分析です。あなたの自分分析はいかがでしたか?
  • ◆自分発見の心身医学は、「ふとした優しさの自分」を生きるための医学です。心の時代の健康医学をめざして35年間歩いてきましたが、満足しています。後は、「ふとした優しさの自分」を生きたい人を、命がある限り支え続けたいと思っています。

     「ふとした優しさの自分」は、「ふと」したものですが、それを育てていけば、自分を目一杯生きて、周りの人も、世界も幸せにできる心の時代の生き方ができます。 NOTWKS(ノットワックス)が好きだと言う人は、仕方がないと思いますが、それは我欲ですから、自分も、世界も行き詰まります。

     「ふとした優しさの自分」が好きだという人は、あえてそのような生き方をしなくても良いのですから嬉しいことですね。素晴らしい世界が待っているのですから、「ふとした優しさの自分」を育てましょう。 そのために、自分分析はとても大切です。自分の中には、色々な自分がいます。どんな自分がいるか、何度も何度も繰り返し、見てみましょう。


●で、あなたの人生の希望は? E(安心)ですか、D(快楽)ですか、F(自分を生きること)ですか?

 本当の自分、、自分の本心を知るためには、自分分析が大変役に立ちますが、性格分析を使った基本的な問いかけも、一番最初にする自分の本心を知る方法としては、大変有効なものです。では、やってみましょう。

「あなたの人生の希望は何ですか?」という質問を受けたとき、あなたはどんな返答をされますか。   たった一人で自家用の飛行機を操縦していて、見知らぬ国のジャングルの中で墜落し、たまたま生き残ったとします。しかし、このように遭難したとしても、水と希望があれば、人はずいぶん長く生き延びることができます。

  お腹の脂肪10kgは、1ヶ月分のエネルギーですから、20kgの肥満の人であれば、2ヶ月後に救助されても、やっと標準体重に戻ったという程度です。 しかし、「救助隊が来ないとしたら?」、誰もこのジャングルに墜落したことを知らなかったとしたら、どうでしょうか。 それでも、自力で脱出できるかもしれません。いや、必ず必死で捜査していてくれているはずです。完全に希望を喪失することはないでしょう。

 がんの患者さんの場合はどうでしょうか。末期ガンになってくれば、もう駄目だという気持ちになるでしょう。日本では、1年間に約30万人が、がんで亡くなっています。病院で見ていると、末期ガンまでいって、何かで劇的に治ったというような奇跡はありません。 自分の周囲のがん患者さんも、次から次へと亡くなっていきます。もはや駄目! それは避けることのできない結論です。来年の春はもうないのです。絶望です。希望はありません。

  しかし、それでも人間は、心の奥底でかすかな希望を抱いているものです。絶望に陥り、あきらめの気持ちになったとしても、一塁の希望があります。新しい特効薬が、ある日突然発見されるかもしれません。新しい治療法が、世界のどこかの研究所で開発されているかもしれません。

  人間にとって、希望というものは、水や酸素や太陽と同じものです。動物は、本能で生きていますから、希望がなくても大丈夫です。しかし、人間は本能だけでは生きていけません。人間が生きていく上で、希望は必須のものです。

  「で、あなたの人生の希望は?」   お金ですか、権力ですか、地位ですか、名誉ですか、良い学校ですか、良い会社ですか、恋人ですか、結婚ですか、子供ですか、スポーツですか、音楽ですか、グルメですか、旅行ですか、読書ですか、テレビですか。貧しい時代では、それらは生きる希望になりました。貧しい時代には、ハングリーから来るエネルギーがあります。ハングリーのエネルギーは極めて強力です。空腹になれば、生きるエネルギーは、かってに出てきます。

  貧しい時代では、物を買える喜びがあります。良い衣食住を得ることは人生の目的であり喜びです。それは、希望です。   貧しい時代では、迷うこともなく、明確な希望がありました。しかも、それはすべての人の共通の希望です。全員共通の希望ですから、良い衣食住への希望は、すさまじいエネルギーを生み出しました。

  そのために、良い学校、良い会社、良い結婚、良い子供達です。矛盾はありません。良い学校、良い会社、良い結婚は、物質的な生活の保証になりました。良い子供達は、老後の生活の保障になりました。自分を抑えて社会適応する生活ですが、それで喜べました。それらが、希望となりました。

  しかし、豊かな時代となった現代、物質的な保証のために自分を捨てなければならないとしたら、それは耐え難いものになります。子供を育てても、全面的に老後を見てくれると期待できなくなりました。   貧しい時代の希望は、豊かな時代では、生きるエネルギーでも、胸をときめかす夢でもなくなりました。色あせました。

  希望が色あせれば、人生も色あせたものになります。希望が干からびたものになれば、人生も干からびたものになります。希望が無感動になれば、人生も無感動になります。 その人の生きるエネルギーも、その人の顔の表情も、すべてその人の希望の反映と言えます。人が、無感動に陥るのも、絶望するのも、パニックになるのも、混乱するのも、混迷になるのも、すべて、その人が明確な希望を持ち得ないからです。

  一言で言えば、「人間とは希望の反映」です。苦痛や悩みや悲しみは、結局は希望の喪失です。   希望さえあれば、どんな苦難にも耐えられます。どんな失敗も恐れることはありません。それらは、練習に過ぎません。自我が傷つくこともありません。すべては、希望への一里塚です。しかし、希望がなくなれば、すべては混乱と苦悩です。すべてがストレスです。「希望喪失症候群」、現代の問題の根底は、希望の喪失と言わざるを得ません。

  「で、あなたの人生の希望は?」。 人間は、希望なくしては生きては行けません。希望なくして生きていくことは不可能です。それが、人間という存在なのです。「で、あなたの人生の希望は?」、「Eですか、Dですか、Fですか?」。


●「本当の自分」とは何でしょうか?

 「自分のことは、自分が一番良く知っている」、そう思って皆さんも私も毎日暮らしているのですが、果たしてそうでしょうか。本当に知っているのでしょうか。

 もし、「本当の自分」を知らないで暮らしているとしたら? あるいは、一部だけしか知らないで暮らしているとしたら? それは大変なことです。

 「私が、私が」といって暮らしていながら、はっと気が付いたら、「本当の自分を生きていなかった」、では何とも寂しいことです。

 こんなことを言っていると、「先生は毎日そんなことを考えながら生きているのですか。大変ですね」と妙な同情をされてしまいそうです。

 確かに多くの人は元気なときには、そんなことは考えません。毎日忙しくて、目の前のことを片付けることで精一杯です。

 実際元気に機嫌良く生きている人を捕まえて、「あなたは本当の自分を生きていますか?」などと議論を吹っかけるのは、おせっかいです。私も、そんなおせっかいはされたくありませんし、お節介おじさんにはなりたくもありません。

 しかし、病気になったときとか、死を前にしたときには、はっと我に返るというか、ふと自分の今までの生き方を見つめる、そのようなことがあります。

 そのようなときにしか、人間は「本当の自分とは何なのか?」、「生命とは何なのか?」といった根本的なことを考えないのかもしれません。いや、考えたくないのだと言った方が正しいのかもしれません。

 ただ、現在、自分の生命や自分自身について不安や関心をおもちの方があれば、一緒に考えていこうと思います。それは、人間に与えられた最高の贈り物、つまり「本当の自由」を得るために実に大事なことだからです。

 それでは、皆さんが自分についてどの程度知っておられるのか検討をして見ましょう。まず、自己紹介をするときを考えて見てください。

 最初に氏名を言います。次は、生年月日、生まれた場所、小学校はどこで、中学校はどこ。現在、どこの会社に勤めていて、何をしているか。それに趣味や特技を付け加えれば上出来です。それで本人も相手も理解し会えたような気持ちになるのですが、一体何がわかったのでしょうか。つまり、「本当の自分」を表現したことになりますか、と言うことです。

 氏名は自分ではないでしょう。同姓同名の人もいますし、結婚して姓が変わることもあります。生まれた日も、場所も、学校も、会社も確かに自分の一部を説明したことにはなりますが、それで十分ですか。それが「本当のあなた」ですか、ということです。

 勿論、自己紹介のときに、自分の全部を語る必要はもうとうありません。自己紹介ではその程度の方が煩雑でなくていいでしょう。短時間ですみますし、第一自分を全部さらけ出せばかえって社会生活では支障がでるでしょう。

 問題なのは、自分自身です。自分が「本当の自分」を知っているかということです。もし、自分が「本当の自分」について、自己紹介の程度ぐらいしか知らないとすれば?

 「いや、そんなことはない。私は自分のことについては当然全てを知っている」、殆どの人はそう思っているはずです。でも、そうでしょうか。

 小学校のときを考えてください。小学校のときも、当然自分はありました。「私、私」と言っていたはずです。そのとき、「あなたの言っているその私はほんの一部ですよ。大きくなったらもっと大きな私になるのですよ」と誰かが言っても、本人には理解できません。

 今の私が全部です。100%です。私のなかに、もっと違った私がいるなんて考えることもできません。そんなことを言えば「おじさん、頭がおかしいよ」と言われかねません。

 しかし、もし「小学生の私」が100%であれば、中学校へいっても「小学生の私」のままです。「中学生の私」はないはずです。「中学生の私」が100%であれば、「現在の私」もないはずです。

 事実を見れば明らかです。「中学生の私」は「小学生の私」に比べて大きく成長しています。小学生の面影は保ちつつ、小学生の時にはなかった「私」が成長しています。

 高校ではどうでしょう。高校生になると中学生の時代とはまた違った私が成長しています。当然のことです。

社会人になったらどうでしょう。今までとは違った「私」です。そして、現在はどうでしょう。小学校生とも、中学生とも、社会人になったときとも違った「私」ではありませんか。

 さらに、10年たったらどうでしょう。「私」もさらに変わっているはずです。

 このように、過去を振り返れば、「私」が変わるのは当然です。あまりにも当たり前のことです。しかし、変わるというのはどういうことでしょうか。

 「今の私」が100%であれば変わることはできません。変わるのは、「今の私」が100%ではないからです。

 自分の知らない自分が、自分の中にいる。大人となった現在の自分の中にも、私の知らない私がいる。だから、将来、たとえば10年後の私は、現在の私とは異なるのです。

 では、どちらが本当の「私」でしょうか。小学生や中学生、さらに現在の「私」というように、そのときそのときの「私」は、本当の「私」ではないのではありませんか。

 私のうちにある「私」こそ、本当の「私」ではないのでしょうか。私のうちにある「私」が、いろいろなことを学んだり体験します。

 まずは、家の中でしょう。両親から言葉を教えられ、誉められたり、怒られたり、遊んだり、転んだりといろいろな経験をします。それらの学習や体験が、そのときの「私」を形成します。

 やがて、外で友達と遊び、学校へも行くようになり、何が得意で、何が不得意か、だんだんと友達との間の相違がはっきりしてきます。

 一番で走ることができる子供、歌の上手な子供、算数が良くできる子供、徐々に差がはっきりとしてきます。個性の誕生です。そして、それを「私」だと思い込みます。

 本当は、私のうちにある「私」が学んだり経験したことの結果が、速く走ることや上手に歌を歌うことや算数が良くできることなのですが、評価したり特徴を覚えるためには、「何ができて、何ができないか」を基準にする方が便利ですので、それをその子供自身と理解します。

 本人も「何ができて、何ができないか」を自分自身であると思い込みます。

 普通に「私」と呼ばれているものは、このようにしてできあがります。学習や経験は総て記憶されていると言われています。

 老人になって、20才のころのことを鮮明に思い出すのはありふれたことです。それなどは、まさに記憶は消え去るものではなく、総て記憶されていることの証拠でしょう。

 そして、この記憶の総体こそが普通「私」と呼んでいるものです。だから、年とともに記憶の総量が増え、小学生のときには小学生の「私」があり、中学生のときには中学生の「私」があり、現在には現在の「私」があるのです。

 私のうちにある「私」が、周りの環境、すなわち家族や友人や会社の人間関係などで、さまざまな経験を繰り返すことにより、また書物などによりさまざまなことを学ぶことにより、常に新しい「私」を創り出しています。これが、常に自分が変わって行く理由です。

 だから、小学生のときの「私」が偽物で、現在の「私」が本物ではないのです。そのときそのときの「私」は確かに、「私」なのです。ただ、私の中にある「私」が生み出した産物なのです。そういう意味で、「私」には違いないのですが、本当の「私」ではないということです。

 もう一つ大事なことがあります。幼いときは体験の量が少ないので、記憶の総体の「私」も小さいものです。だから、少しの新しい体験も大きな影響を与えます。

 しかし、大人になり年を取れば取るほど、記憶の総体の「私」も大きなものになります。すなわち、少々のことでは変化しなくなります。

 小さな池に石を投げれば、大きな波紋になりますが、大きな池に石を投げてもたいした影響は起こりません。それと同じことで、年を取ると「私」も変化しなくなります。それを成熟とか大人になったとか言いますが、中身は過去の記憶ばかりになったということです。

 過去の記憶が大きくなり過ぎると、世間からは安定した人間と見られますが、何が起こってもたいして感動もしなければ、生きている実感も少なくなります。

 どれが本当の「私」なのか、どれが記憶の「私」なのかわからなくなります。本当の「私」を生きることが難しくなります。

 一度、過去の記憶から自由にならなければなりません。しかし、巨大になった過去の記憶から自由になることは可能でしょうか。

 残された人生を過去を生きるだけで終わりたくありません。何かその方法があるのでしょうか。何としてもその方法を得たいものです。

 しかし、心配はいりません。その方法こそ、心の時代の心身医学ー自分発見の方法です。くり返し学んで下さい。